頑固者の空手(上本町道場 田中文雄)

さむらい(士)の系譜を継ぐ者として

時代の移り変わりの中で、伝統文化は次第に希釈され、いつの間にか異質のものに変化してしまう危うさにさらされている。

現在、空手界は大半がスポーツ競技カラテ化し、国体にそしてオリンピックにと増々その傾向を強めています。果たしてそれでいいのだろうか????????

組手競技も形競技も、審判員の目を引く所作が重視され、武道の本質からかけ離れた判定がされている。形競技に至っては、見栄えが重視され見せる為の形となり、まるで歌舞伎役者の演技を見ているようである。

『いちちぬ いーびや いぬたきや ねーらん』

一口に空手と言ってもその形態や考え方は様々である。

 

さむらい(士)の系譜

東恩納寛量先生から宮城長順先生に、そして宮里栄一先生へと直接に継承されて行った伝統沖縄剛柔流空手の本流を、純粋に継承する者(士の系譜を継ぐ者)には伝統沖縄剛柔流を後世に保存普及させる使命がある。

それには、時代の風潮に迎合しない頑固者こそが、伝統沖縄剛柔流を守り抜くことができる。

私は旧順道館門下生として、また沖縄剛柔流空手道協会会員として、同志(士の系譜を継ぐ有志の者)と協力連繋し、純粋な沖縄剛柔流を守り育てて行くことを宿願としている。

私は、いつの日か必ず訪れる自分自身の最期の日まで、不撓不屈の精神で闘い覚悟の頑固者である。

恩師宮里栄一先生の遺言(著書沖縄伝剛柔流空手道から抜粋)

今日空手が国境を越えて、世界の隅々まで普及進展し、空手人口が急増したからと言って果たしてすぐ手放して発展だと評価していいものかどうか、反省したとき至極疑問に思うのは、私独りではないと思う。大事な空手の本質を失い、精神面は勿論、技術面に於いても歪められていることが痛感されます。そのまま普及すると、将来必ず憂慮されるときが来ます。

競技中心になると勝敗にこだわる嫌いがある。試合に適する武道もあれば、不適のものもあることを考慮しなければならない。競技武道は、短期間で修得できるが、その反面実力の寿命が短い。武術的空手は基本や形等を尊重し、長期鍛錬を続けるので、その実力を永く維持することができる。今日、武術的空手を軽視し、殆どが競技空手に偏しているため、その修行は短期間で終わっている。心技一体の長い修行が大切であることを悟らねばならない。競技化即ち発展とすぐ考えられるか、どうか極めて疑問である。古人は、武道は競技化することによって滅びて行くとまで戒めている。

『武道精神とは、自己との厳しい闘いである。日常我々は周囲の複雑な環境と闘って生きていることを知らねばならない。「試合に勝つ」とか「段を取る」とか「強い」「弱い」「巧い」「拙い」等言うのは表面の一部分にしか過ぎない。武道のもつ価値はもっと大きい。よりもっと大切なことは、永く修行することによって培われた不撓不屈の精神である。』

人間の内面が重視されねばならない。人を愛し、人に愛される人間となり常に心に光明を保ち得る人間となることが大切である。

伝統と言うのは眼に見えないある「力」をもって生きている。故きを温ねて新しきを知ると言う古諺を忘れることなく自己にうち克って、修行を永続せねばならない。

空手修行の特質は、場所・性別・体力の強弱を問わず、修行が永続できる利点があることを認識して頂きたい。

現在、沖縄の多くの空手の修行者が古来の伝統文化空手を大切に守り抜き、日本化した競技空手に関心を持たない実情である。

 

田中文雄と恩師宮里栄一先生

宮里栄一先生の教訓

修行の心得(其の八) 撓まず屈せず修行を永続せよ

【自己との闘い】

私はラストサムライ(最後の武士)の一人として、最期の日まで、恩師宮里栄一先生の教えを守り、不撓不屈の精神で闘い抜く覚悟である。