宮里栄一先生の思い出(上本町道場 田中文雄)

宮里栄一先生と田中文雄、順道館にて。

18年前の今日(1999年12月11日)私の心の師宮里栄一先生はお亡くなりになられました。

常に私の憧れの星であった宮里栄一先生との思い出は数多くあります。

私が仕事上で思い悩んでいた時、永い間独り身で暮らしていた時、股関節の故障で暫く稽古を休まざるをえなかった時、晴れて結婚した時、長女が生まれた時等々に『いつも前向き』に頑張ることを教え激励してくれました。

特に私が37歳で結婚した時にはとても喜んでくれて「田中君 新婚旅行は必ず沖縄に来なさい。僕がホテルを予約しておくからね」と色々お世話をしてくれました。宮里先生の愛車トヨタカリーナで観光案内や波の上のステーキハウス金松へよく連れて行ってくれたことも思い出のひとコマでした。

そして順道館道場では、宮里先生が門下生に「今夜は道場で、田中君の結婚お祝いパーティーをやるから、皆道場に集まるように連絡しなさい」と指示されたのには感激しました。

先日、協会の筆頭副会長喜久川政成先生から「今まで道場で結婚お祝いパーティーなど、田中さん以外には一度も無いよ」と言われ、私は宮里先生から特に可愛がられていたんだなと強く思いました。

私が股関節の故障で稽古できなかった期間、順道館仲間から田中文雄はもう再起不能だろうと思われていました。この時も宮里先生は「良い病院があるはずだから探して治療しなさい」と何度も励ましてくれ、「警察官を退職したら必ず道場を開きなさい。僕が必ず応援するからね」と信じてくれました。宮里栄一先生は、私が定年退職する約9年前にお亡くなりになりました。

いつも私を信じて支えてくれた心の師宮里栄一先生のことを、私は決して忘れません。ありがとうございました。

私は頑張ります、宮里栄一先生の教えを守り『いつも前向き 感謝と思いやりの心で』。

宮里栄一先生 最後の言葉(上本町道場 田中文雄)

田中文雄と宮里栄一先生、順道館玄関前にて。

恩師最後の言葉

『 田中君 来てくれたんだね。元気でやっているか。また会えるから 必ず会えるから 元気で頑張れ。きっとまた会えるから 頑張れよ 田中君 』

1999年8月 恩師宮里栄一先生から田中文雄への最後の言葉であった。

1999年8月に、私は妻と長女を連れて、数年ぶりに順道館を訪問した。午後8時頃ではなかったかと思う。フランスから来た外国人男女が約20名くらいで空手の稽古中であった。私は中学1年生に成長した長女を宮里先生に見せて家族共々元気で暮らしていることを報告するつもりであった。

その時、現在沖縄剛柔流空手道協会の理事長高良正剛先生が現れて声をかけてくれた。

「田中さんじゃないですか、お久しぶりです、お元気でしたか。どうぞ奥の部屋に入って下さい」と応接室に招かれた。

「実は上層部の一部の者だけの内密なのですが、宮里先生は重篤な病気で入院して面会謝絶中なのです。田中さんが来てくれたことは必ずお伝えします」とのことであった。

宮里先生に会うこともかなわず仕方なく帰宅して、2週間くらい後だったかと思う。自宅に宮里先生自身から電話があった。それが先の宮里栄一先生から田中文雄への最後の言葉になったのである。その約3か月余り後に宮里栄一先生はお亡くなりになりました。

1999年12月11日 沖縄空手界の巨星墜つ 享年77歳

大正区の沖縄空手(上本町道場 田中文雄)

名嘉永吉先生と田中文雄と仲村隆男氏(大正区沖縄県人会会長)

名嘉道場忘年会が12月2日に大正区小林の正起屋であり参加しました。

名嘉永吉先生と仲村隆男氏と私は、15年ぐらい前からの付き合いで、共に空手をそして沖縄を語り合う盟友であり親友でもあります。

沖縄県人会イチオシ(推奨)の

沖縄剛柔流空手古武道 尚永館 名嘉道場は

大阪市大正区平尾4-18-13(平尾バス停から約3分)

名嘉永吉先生の握りガメ鍛錬

沖縄剛柔流空手道と沖縄古武道各種(棒・釵・トンファー・ヌンチャク・エーク・二丁鎌)を指導しています。私も名嘉先生からトンファーを習いました。

指導は火・木・土の夜と日曜の午前中です。

名嘉永吉先生は、比嘉世幸先生の高弟福元英吉先生の後継者です。

名嘉空手道場へのお問い合わせは

090-3358-1001(名嘉永吉先生)