沖縄剛柔流について

沖縄剛柔流とは

沖縄の伝統的な手法で指導訓練を重ね、防御を目的とする武術的要素の強い沖縄の剛柔流で、自己鍛錬・生涯自己修養に重きを置いており、特に沖縄剛柔流と呼ばれています。

本土で普及し、競技を主体としたスポーツ空手の剛柔流とは、明確に区別されています。

沖縄剛柔流空手道協会の章(故)知念眞三先生考案(昭和57年10月2日)

沖縄剛柔流空手道協会とは

沖縄空手界において最も由緒ある名門団体として、国内のみならず国際的にも認知されている。

拳聖宮城長順先生の直系本流の団体である。

(歴代会長)

初代会長  (故)宮里栄一先生

二代目会長 (故)伊波康進先生

三代目会長 (故)比知屋義夫先生

現会長      照屋幸榮先生

詳細は 沖縄剛柔流空手道協会ホームページ https://www.ogkk.jp/

拳聖宮城長順先生の胸像

武神像(九天風火院三田都元帥)

ブサーガナシーとも呼ばれている(カナシーは神様への尊称で武の神様の意)。

高弟(故)真玉橋景洋(まだんばし けいよう)先生から宮城長順先生に贈られ、宮城先生のご逝去後に奥様から宮里栄一先生に贈られて、現在も順道館に祀られている。

 

新垣世璋先生について

東恩納寛量先生に手(てぃ)を指導された最初の先生である。

猫のように身軽であったことから『マヤー新垣』と呼ばれた。

那覇は久米町に居住。

(1840年生~1920年没)

 

ルールーコー(?)について

中国福建省福州の南派少林拳の大家であったと伝えられている。確かな文献が残っておらず、その名前についても正しい表記や発音さえ定かではない。東恩納寛量先生が福建省で師事されている。現在も何人かの考証家により諸説あるが、その何れも不確かな言い伝えのみで確証無く、またそれぞれの諸説に矛盾点も多く、今も謎の人物である。東恩納寛量先生が師事した期間についても、3年説~15年説などあり今もって不明である。

(生没年不詳)

 

東恩納寛量先生について

那覇手(ナーフアディー)中興の祖と敬われている大家である。那覇西町で出生。

(因みに首里手中興の祖は松村宗棍先生、泊手中興の祖は松茂良與作先生)

ヒジャウンナヌタンメーと呼ばれ、当時沖縄で比類なき武士(那覇手の使い手)であった。新垣世璋先生とルールーコーに師事。(ワイシンザンにも師事したという説もあるが事実は不明である)

その高弟に宮城長順先生(沖縄剛柔流流祖)、許田重発先生(東恩流流祖)、城間恒貴先生等がいる。

(1853年生~1916年没)享年63歳

 

宮城長順先生について

拳聖宮城長順先生として敬われる、沖縄空手の歴史上に残る大家である。

剛柔流の流祖であり、空手界で最初に流名を名乗られたのが宮城長順先生であった。

那覇市東町1丁目11番地に生まれた。14歳の頃に当時沖縄に於いて実力随一とうたわれた那覇手の東恩納寛量先生に師事。

昭和4年(1929)4月より沖縄県警察練習所と那覇市立商業学校に空手が正課として採用され、その師範として迎えられた。

昭和12年(1937)5月5日大日本武徳会主催の武徳祭に於いて、空手を演武し、全国で初めて空手術の教士称号を授与された。

昭和13年(1938)4月沖縄県師範学校の空手師範に任命された。

昭和20年(1945)沖縄民政府が設けられ、警察学校の教官に任命され、警察官の指導に専念する傍ら、那覇市壺屋の自宅道場に於いて門弟の指導育成にあたられた。

子弟への戒語は「謙虚」、「難儀」(苦しい修行)は即ち極意であった。

宮城長順先生と許田重発先生

(1888年4月25日生~1953年10月8日没)享年65歳

 

宮里栄一先生について

那覇市東町に生まれる。

11歳から空手修行。宮城長順先生に師事。

当時は食糧難の時代で、警察学校の体育官であった宮城長順先生から、空手を続けようと思うなら警察以外にないと警察官になることを勧められる。

琉球警察の警察官になり、宮城長順先生の助手として警察官に空手を指導。

宮城長順先生ご逝去後は、宮城先生のご自宅道場にて門下生の指導をするとともに、宮城先生の後任として警察学校体育官に任命され警察官に武道指導。

宮城先生亡き後、昭和29年(1954)4月に在沖縄の宮城先生の門下生のほとんどが集合した沖縄剛柔流振興会総会(仲井真元楷先生、真玉橋景洋先生、田崎厚牛先生、八木明徳先生、宮里栄一先生、伊波康進先生等のそうそうたるメンバーが列席)で、宮里栄一先生が拳聖宮城長順先生の正式な後継者として、絶対的多数の意見により指名され、当初は固辞されていたが剛柔流の将来を思いこれをお受けされた。

昭和32年(1957)に那覇市安里に順道館空手道場を開設。

昭和44年(1969)に沖縄剛柔流空手道協会(会長宮里栄一、副会長伊波康進)を設立。

沖縄の順道館と沖縄剛柔流空手道協会の創設者である。

(1922年7月5日生~1999年12月11日没)享年77歳

宮城長順先生と宮里栄一先生の組手(警察体育館に於いて、琉球民政府広報室が写したもの。昭和24年)

(故)宮里栄一先生

東恩納寛量先生・宮城長順先生の顕彰碑建立趣意書並びに醵金のお願い(代表世話人 宮里栄一先生・与儀実栄先生)。1986年(昭和61)10月17日 田中文雄が受ける。

顕彰碑建立御醵金御礼と除幕式について(顕彰碑建立世話人代表 宮里栄一先生)。1987年(昭和62)1月27日 田中文雄が受ける。

(故)宮里栄一先生と田中文雄(那覇市安里2丁目の順道館にて)

田中文雄と(故)宮里栄一先生(順道館玄関前にて)

田中文雄と(故)宮里栄一先生

田中文雄と(故)宮里栄一先生と(故)上地善雄先生

(故)上地善雄先生は貫手の名手。(上地善雄先生は石垣島の上地拳王先生のお父様です)

少年時代の上地拳王先生と(故)上地善雄先生

田中文雄と顧問の備瀬知信先生と二代目会長の(故)伊波康進先生(伊波先生と備瀬先生は共に宮城長順先生の直弟子であり、宮里栄一先生の弟弟子になる)。

(故)新垣良盛先生と田中文雄

(2009年那覇市真嘉比の新垣先生ご自宅にて撮影)

新垣良盛先生は新垣良伸先生のお父様で、豪拳でおそれられた突きの名手です。かって、空手経験者でもあった羽田孜外務大臣(副総理?)が沖縄訪問をされたおり、沖縄県のご案内により順道館に立ち寄られ、その時、羽田大臣に沖縄剛柔流の歴史などについてご説明されたのが新垣良盛先生でした。

左が(故)知念真三先生、横が(故)宮里栄一先生、右が田中文雄(順道館時代に浦添市牧港の(故)大嶺芳重先生宅の庭にて撮影)

(故)嶺井南康先生(南城市佐敷字津波古の嶺井道場にて)

田中文雄と儀間真幸先生(旧順道館時代からの親友同士)

 

鈴木昭彦先生について

昭和から平成にかけての沖縄剛柔流空手道の天才的な大拳豪である。

(旧)沖縄順道館で宮里栄一先生の優秀な高弟。その天才肌で抜群の技術は沖縄で定評があった。

特に三戦については、沖縄で鈴木昭彦先生の右に出る者は居ないと言われた程の三戦の名手でもあった。(そのほか沖縄で数々の逸話が、今も多数残っている。)

日本体育大学卒業(大学では陸上競技を専攻)。

沖縄工業高等学校の体育教諭として約10年間奉職し、同高校の空手道部の創設者でもあった。当時、鈴木昭彦先生から空手指導を受けた卒業生が、現在は沖縄で空手界の重鎮として活躍している。

後に関西に移住し、西日本で本格的な沖縄剛柔流を指導した最初の指導者でもあった。

特に大阪や京都では、鈴木昭彦先生の指導を受けた愛弟子が、沖縄剛柔流空手道の指導者として多数活動している。

現在でも、西日本で鈴木昭彦先生の技量を超える沖縄剛柔流空手の指導者は、今だに見当たらない。旺盛な研究心とその技量は特に抜群であった。

生前は沖縄順道館と沖縄剛柔流空手道協会の相談役としての大役を担っておられました。

(1934年1月11日生~2009年3月29日没)享年75歳

(故)浅野憲道先生と(故)鈴木昭彦先生の一本組手

(故)鈴木昭彦先生と(故)浅野憲道先生

(故)浅野憲道先生と(故)鈴木昭彦先生

(故)浅野憲道先生と(故)鈴木昭彦先生

宮里栄一先生(右)と鈴木昭彦先生(左)、修行の心得(下)

(故)宮里栄一先生と(故)鈴木昭彦先生(昭和42年頃、那覇港にて田中文雄が写す。)

(故)鈴木昭彦先生が順道館時代に記された【忘備録】

【忘備録】は、鈴木昭彦先生が沖縄在住時に、順道館で宮里栄一先生から剛柔流を学び、勤務先の沖縄工業高等学校で空手部員の指導用に、重要ポイントを覚え書きしたものです。

(その内容は)

準備運動・補助運動、立ち方と運足、三戦と転掌の指導要点、器具鍛錬の使用法、突き・蹴りの要点、受け払いの要点、形の要点と指導方法、カキェの指導要点、約束組手・一本組手の実際的指導法、巻き藁訓練の要点、など当時の順道館での鍛錬や、棒術(周氏の棍)、釵術(津堅志多泊の釵)などが子細に記されている。

この忘備録は指導書そのものである。今まで様々な指導書を目にしてきたが、これ以上のものを目にしたことはかってない。

師である(故)宮里栄一先生が「関西で鈴木昭彦の右に出る者はいないだろう」と語っておられたのが、十分に頷けると改めて感服しています。

(故)鈴木昭彦先生が順道館時代に記された【武道考】

順道館時代に研究されたものでその内容は

心気力の一致、残心について、気合い、掛声について、隙について、呼吸について、機先について、間合いとは、打・突の機会、気位について、四戒、放心とは、不動心について、合気を外す、懸待一致について、虚実について、「起り」、「香」、「誘」、「色」、「用」、「体」、目附など多岐にわたる内容を記されている。

【忘備録】【武道考】は、田中文雄が鈴木昭彦先生の奥様から、遺品一切を拝受して所有している物の一部であるが、正に沖縄剛柔流の秘伝と言えるような内容が多数含まれているので、特に門外不出としている。

順道館の(故)可成健一先生と(故)鈴木昭彦先生(昭和42年頃、那覇港にて田中文雄が写す)

(故)鈴木昭彦先生と田中文雄

田中文雄と幸喜源成先生と(故)鈴木昭彦先生(後ろ姿)(1978年)

(故)知念眞三先生の似顔絵

宮里栄一先生の墓前にて喜久川政成先生と田中文雄

(旧)順道館時代の思い出写真

宮城長順先生20年祭演武大会出場記念品(1973年沖縄タイムスホール)

三戦 (宮城長順先生25年祭演武大会、昭和52年、沖縄県立奥武山武道館)

三戦

三戦

田中文雄の三戦と(故)浅野憲道先生

(宮城長順先生追悼25周年記念演武大会、沖縄県立奥武山武道館にて)

(故)宮里栄一先生

西の横綱松(岡野松、香川県志度町真覚寺)田中文雄と(故)宮里栄一先生

平田清栄先生と(故)宮里栄一先生

(故)国吉真弘先生、平良正次先生(現、沖縄剛柔流空手道研究会会長)、新城安勇先生(現、剛勇会会長)、田中文雄、幸喜源成先生(那覇市内、いづみ会館にて)

田中文雄と新城安勇先生

田中文雄の久留頓破演武

田中文雄の久留頓破演武

親友の琉尚建設社長仲田尚恵氏(沖縄市字桃原にて)

順道館、(故)知念眞三先生、(故)大嶺芳重先生、田中文雄

順道館、親友の儀間真幸先生

順道館、(故)大嶺芳重先生、田中文雄、外間正光先生

順道館で親友の島袋賢栄先生(現在は剛栄会会長)と田中文雄

田中文雄と島袋賢栄先生(我謝自動車整備工場にて)

順道館の内間保夫先生

上原信宏氏、内間保夫先生のお父様、内間保夫先生(久米島具志川村西銘にて)

久米島五枝の松(くめのごえまつ)、田中文雄と上原信宏氏

琉歌 五枝の松

久米の五枝の松 下枝ど枕  思童無蔵や 我腕まくら

(歌意)

久米の五枝松は下枝を枕にしているけれど、私の愛しい彼女は私の腕を枕にして寝ているよ。

田中文雄、久米島角力の猛者安村猛氏(久米島の安村氏宅にて)

内間保夫先生、島袋賢栄先生、久米島角力猛者の安村猛氏(角力の表彰状が多数掛かっている)

安村猛氏、上原信宏氏(久米島の内間保夫先生宅にて)

順道館の(故)国吉真弘先生

入部真一先生、(故)鈴木昭彦先生、仲宗根計吉先生(順道館にて)

武人像

仲宗根計吉先生と(故)宮里栄一先生(順道館にて)

仲宗根計吉先生のチーシー鍛錬(順道館にて)

儀間真幸先生

嘉数文男先生と田中文雄(順道館)

(故)知念眞三先生、(故)宮里栄一先生、田中文雄、儀間真幸先生

田中文雄と仲宗根道場主の仲宗根計吉先生

1972年(昭和47年)沖縄本土復帰までは、沖縄~本土間の渡航には総理府発行の身分証明書が必要であった。

 

修行の心得 (沖縄剛柔流空手道協会)

1、謙虚にして礼儀を重んぜよ

1、体力に応じて適度に修行せよ

1、真剣に工夫研究せよ

1、平静沈着にして敏捷自在なれ

1、摂生を重んぜよ

1、質素な生活をせよ

1、慢心せぬこと

1、撓まず屈せず修行を永続せよ

 

OGKK Dojo Kun

1、Be mindful of your courtesy with humbleness

1、Train yourself considering physical strength

1、Study and contrive seriously

1、Be calm in mind and swift in action

1、Take care of yourself

1、Live a plain and simple life

1、Do not be too proud of yourself

1、Continue training with patience and steadiness

 

形の種類と名称 (沖縄剛柔流空手道協会)

(基本)

三戦    (さんちん)

沖縄剛柔流空手の基本であり、正しい姿勢、正しい呼吸が最も大切である。昔三戦だけで3~5年も稽古を積んだと言われ、剛柔流空手は三戦に始まり三戦に終わると言われる所以である。

(開手形)

撃砕一   (げきさいいち)

昭和16年宮城長順先生が初心者の為に考案され、上中下の攻防技を合理的に体系づけ、剛柔流の形の特徴を多く取り入れてある。

撃砕二   (げきさいに)

撃砕第一と同様宮城長順先生が考案され、形はほとんど同じであるが引き受け、猫足、虎口の高度な技が含まれている。

砕破    (さいふあ)

演武時間の最も短い形であるが、拳鎚打ち、双手突き、外し技、裏突き、蹴り、足運び等難度の高い技が多い。

制引戦   (せいゆんちん)

この形だけは蹴り技が無く、裏拳打ち応用変化があり、また四股立ちが多く下半身を鍛える為の力強い鍛練形である。

四向戦   (しそうちん)

掌底押し、貫手指頭突き、逆関節技、裏掛け受け、縦肘当てなど開手の技が多く含まれている。

三十六手  (さんせーるう)

足刀蹴り、追い蹴り、足取り、転身など実戦的な攻防の技が多く含まれていて弧受けの妙味をも教えている。

十ハ手   (せーぱい)

裏拳突き、裏拳打ち、拳鎚打ちなど接近戦に対処する打撃技、外し技など効果的な護身術が多く含まれている。また高度な欺瞞の術も含まれている。

久留頓破  (くるるんふあ)

交差受け、膝蹴り受け、ハンマー投げなど猫の様に素早い動きと粘りある動きが調和され極めにくい動作を一挙にして極めるところに特徴がある。

十三手   (せーさん)

ゆっくりとした動作から素早い足捌きの動作に移り、突き受けの連続技があり、剛と柔が調和された変化のある形である。

壱百零八手 (すうぱありんぺい)(ぺっちゅうりん)

別名ぺっちゅうりんとも言う、上・中・下の三つの形で構成されていたと伝えられる。現在の壱百零八手は上で剛柔流の形で最も長く四方八方へ多彩の技を駆使し遅速緩急が多く非常に妙味があり魅力がある。剛柔流の奥義が伺える形である。

(閉手形) 

転掌    (てんしょう)

宮城長順先生が大正4年に中国拳法を研究する目的で福建省福州を訪ねた際、南派少林拳白鶴拳の六合壱機手(略して六機手)を研究されて考案し閉手形とした。臍下丹田に力を集中し気息体の修練を目的とすることは三戦と全く同じである。正しい姿勢と呼吸によって開掌で各種の受け方、掌底の当て方などを体得する。

以上の形の解説は、(故)鈴木昭彦先生が旧順道館修行時代に筆記されたものである。

(故)鈴木昭彦先生書の形の解説

宮里栄一先生 三回忌追善演武大会セミナー 2001年7月27日

順道館開設50周年演武大会 2003年5月24日 那覇市民体育館

2012・8・18 南城市佐敷町 津波古公民館

2017年 沖縄空手会館

(故)嶺井南康先生、(故)比知屋義夫先生、田中文雄

宮里栄一先生の墓前にて、嶺井時光先生、田中文雄、(故)奥間巴昌先生

田中文雄、(故)嶺井南康先生、(故)奥間巴昌先生、嶺井時光先生

田中文雄と(故)嶺井南康先生。斎場御嶽(せーふぁうたき)にて

(故)嶺井南康先生のお孫さんと田中文雄(沖縄県南城市のマウンテンスクールにて)

田中文雄と嶺井時光先生(マウンテンスクール正門前にて)

不撓不屈のジョン万次郎と友情