忘れていませんか ? 何よりも大切なことを

 

少年の 踏み出す所に 大きな道がある

子供も大人も、女子も男子も めんそーれ

ここがあなたのパワースポット

わらべ~ なら~しなむん

 

(指導方針)

いつも前向き 感謝と思いやり

JOHN MUNG SPIRIT ジョンマン・スピリット

 

不撓不屈の人々とその友情

万次郎

重蔵 伝蔵(筆之丞)

五右衛門

寅右衛門

 

ウィリアム・H・ホイットフイールド船長

遭難した万次郎らを救助した捕鯨船ジョン・ハウランド号の船長。万次郎の才能を見抜き一人米国へ連れ帰り、留学とでもいうべき教育を授けた。

サミュエル・C・デーモン牧師

ハワイで「The Friend」という太平洋航海の情報紙を発刊、万次郎らを助け帰国計画を練った。

 

アイラ・ディビス船長

ホイットモア船長

板良敷朝忠

徳門親雲上(高安)家の人々

島津斉彬

山内容堂(豊信)

河田小龍

江川太郎左衛門(英龍)

ジョン・M・ブルック大尉

咸臨丸に同乗してサンフランシスコに航海した米国海軍士官である。ブルック大尉は『咸臨丸航海日記』を書き留めていた。この日記には勝海舟の『氷川清話』にも福沢諭吉の『福翁自伝』にも書かれていない航海中の事実が書かれている。ブルック大尉は「万次郎は私が今まで出会った中で最も優れた人物の一人である」。「本艦に乗り込んでいる日本人の中で日本海軍を変革するために何が喫緊の課題であるか理解しているのは万次郎のみである。私は万次郎を助け日本海軍発展のため援助を惜しまぬつもりだ」。「万次郎は冒険心に満ちた人物である。万次郎が誰よりも日本の開国に関わってきた事に私は満足している」。並外れた能力を持つ日本人として万次郎を絶賛している。航海日記はブルック本人の遺言で、「死後50年間はこの日記は公開してはいけない」とされていて100年後に日記は日の目をみることになった。ブルック大尉は「万次郎を不条理から守らなければならない」と思っていたのではないだろうか。咸臨丸で武士としてのプライドの高い人たちのメンツを潰すことになるだろうと悟った。そうなれば一番困るのは万次郎であるとブルックは推測し、その日記を死後50年間は万次郎を守るために世間に出してはいけないと考え、遺言に残したのだろう。

ジョン万次郎 琉球上陸の軌跡

著者 神谷良昌

発行 琉球新報社

民主主義始まりの地(沖縄県糸満市)

沖縄県糸満市のリーフレット

沖縄県糸満市のリーフレット

万次郎少年像(高知県土佐清水市)

足摺岬に立つ中浜万次郎像(高知県土佐清水市)

少年の踏み出す所に大きな道がある 高知県土佐清水市(銅像作家 濱田浩造氏作)

ジョン・マンの生涯

『冒険とは、夢を形に変える行動力である。』

漂巽紀略 (講談社学術文庫)

ジョン万次郎 述  河田小龍 記

谷村鯛夢 訳  北代淳二 監修

天保12(1841)年、漂流する土佐の漁師五名はアメリカ捕鯨船に救出されハワイにたどり着く。ジョンという名を得て合衆国本土へと向かった万次郎は、西洋近代世界を目の当たりにした。遭難から帰国を遂げるまで十年の顛末を聴取した河田小龍が、鉄道や建築から社会制度、風俗までの見聞を詳細な絵図とともに記録した、無二の資料。完全現代語訳。

 

(精一杯咲ちゅる花ぬ見事)

 

てぃんさぐぬ花

てぃんさぐぬ花や 爪先(ちみさち)に染(す)みてぃ 親(うや)ぬ諭(ゆ)し事(ぐとぅ)や 肝(ちむ)に染(す)みり

天(てぃん)ぬ群星(むりぶし)や 読(ゆ)みば読(ゆ)まりゆい 親(うや)ぬ寄言(ゆしぐとぅ)や 読(ゆ)みやならん

夜(ゆる)走(は)らす舟(ふに)や  子(に)ぬ方星(ふぁぶし)見当(みあ)てぃ 我(わ)ん生(な)ちぇる親(うや)や 我(わ)んどぅ見当(みあ)てぃ

宝玉(たからだま)やてぃん 磨(みが)かにば錆(さび)す 朝夕(あさゆ)肝(ちむ)磨(みが)ち 浮世(うちゆ)渡(わた)ら

誠(まくとぅ)する人(ひとぅ)や 後(あとぅ)や何時(いち)迄(までぃ)ん 思事(うむくとぅ)ん叶(かな)てぃ 千代(ちゆ)ぬ栄(さか)い

為(な)しば何事(なんぐとぅ)ん 成(な)ゆる事(ぐとぅ)やしが 為(な)さぬ故(ゆい)からどぅ 成(な)らぬ定(さだ)み

行(い)ち足(た)らん事(くとぅ)や 一人(ちゅい)足(た)れい足(だ)れい 互(たげ)に補(うじな)てぃどう 年(とうし)や寄(ゆ)ゆる

あてぃん 喜ぶな 失なてぃん 泣くな  人のよしあしや 後ど知ゆる

栄てぃゆく中に 慎しまななゆみ ゆかるほど稲や あぶし枕い

朝夕寄せ事や 他所の上も見ちょてぃ 老いのい言葉の 余りと思な

シーサーと石敢當